《跨越文化:中日跨文化交際》吸收了國內外跨文化交際的研究成果,結合我國日語學習者的特點及實際需求,在對跨文化交際的基本理論及基本概念進行梳理的基礎上,重點闡述日《跨越文化:中日跨文化交際》化的特點、日本人的交際習慣及交際心理、分析文化背景對于交際過程的影響。
《跨越文化:中日跨文化交際》著眼于對文化差異的梳理,通過中日跨文化交際的實際案例,從日《跨越文化:中日跨文化交際》化因素、思維方式、社會交往、人際關系、語言及非語言行為習慣的差異、價值觀等不同角度,分析日本人的交際特點及中日文化的差異,以提高日語學習者的跨文化意識及交際能力,克服跨文化交際障礙。
目次
第1章異文化コミュニケーションとは
1.現代中國と異文化コミュニケーション1
2.異文化コミュニケーションに必要な基本的な考え方3
3.カルチャー.ショック(cultureshock)について8
4.異文化コミュニケーションの一般的な概念13
5.中國人と日本人の表現形式からみた言語コミュニケーションの相違14
6.異文化コミュニケーション能力19
參考文獻24
第2章人間関係とコミュニケーション
1.日本人の人間関係観27
2.「タテ社會」の人間関係30
3.「ウチ」と「ソト」の人間関係35
4.「甘え」と日本人の精神構造40
5.「義理」と「人情」44
コラム50
參考文獻51
第3章コミュニケーション.スタイル
1.文化とコミュニケーション53
2.コンテキスト54
3.コミュニケーション.スタイル56
4.高コンテキスト文化と低コンテキスト文化におけるコミュニケーション.スタイル58
5.雙方向コミュニケーション67
參考文獻70
第4章対人関係とコミュニケーション
1.自己と他者75
2.日本人の遠慮と察しのコミュニケーション77
3.対人関係における自己開示82
4.日本的小集団の特徴とコミュニケーション87
5.日本的対人関係(「恥」と「罪」、「タテ」と「ヨコ」、「甘え」と「自立心」、「建て前」と「本音」)93
參考文獻100
第5章言語コミュニケーション
1.日本人の言語コミュニケーションの特徴102
2.依頼表現104
3.不満表明110
4.勧誘表現114
5.挨拶表現117
6.ほめ表現123
7.感謝表現と謝罪表現134
參考文獻143
第6章非言語コミュニケーション
1.日本人の非言語メッセージ147
2.身振り言語148
3.表情と視線行動150
4.しぐさとジェスチャー(手勢、姿態)154
5.身體接觸行動164
6.空間と対人距離165
7.時間の感覚168
コラム171
參考文獻172
第7章価値観
1.文化と価値観173
2.価値観とは何か176
3.価値観の特徴178
4.価値志向の分類181
5.日本人の価値観の変化185
參考文獻189
第1章
異文化コミュニケーションとは
1.現代中國と異文化コミュニケーション
中國社會は21世紀に入り、本格的なグローバル化を迎えた。國內総生産(GDP)は世界第2位を維持し、世界各地からもたらされた商品が街にあふれ、大量消費社會を迎えている。
科學技術の進歩、とりわけ通信技術の進歩によって攜帯電話やパソコンなどが國民の大多數に浸透し、電子メールやインターネットを利用することで、誰でも國境を越えて世界と直接つながることができるようになった。情報をめぐって、マクルーハン(H.M.McLuhan,1962)の言った「地球村(Globalvillage)」1の住人になりつつある。中國各地の都市部は急速な発展を遂げ、周辺の農村部から出稼ぎに來た労働者が街の建設を大きく支えている。住宅改革が推進され、數多くの市民が新しく住宅を購入し、日々豊かさの何たるかを実感しつつある。「チャイニーズドリーム(中國夢)」の実現が夢でなくなったのが現代中國社會である。
夢の実現に伴い日常生活のペースもスピードを増した。その代償として、人々の受けるストレスもいっそう大きくなった。都市化が急速に進むなかで、人と人との関わり方が以前に比べてずっと希薄になった。人口の移動が激しくなり、昔なじみの隣人がいつの間にか見ず知らずの人に変わり、當たり前のように交わさ1マクルーハンは(H.M.McLuhan,1962)において、テレビ.ラジオのような電子的なマスメディアが発達して、人々の情報交換がより緊密になり、時間と空間の壁が打ち砕かれると予想し、地球全體が村のようになると論じた。れていた挨拶の習慣でさえ失われつつある。「遠い親戚より近くの他人」という
諺に例えられた中國各地の地域社會の絆がほころびを見せ始めている。
地域社會から目を家族関係に移して見よう。近のニュースを見ていると、親の財産を分割するために法廷まで訴え、本來の肉親関係の兄弟姉妹は反目してしまったり、親は子供をないがしろにし、その子を虐待するなど、これまでの常識では考えられないような人の道にもとる事件が次々と起きている。親子関係でさえそうなのであるから、他人との関係がいびつになっていくのはもっともの事だと、納得せざるを得ない。
こうした風潮を一過性の社會問題であると片付けてはならない。より社會科學的な視點から冷靜に事象を分析した時、人々の「コミュニケーション能力」が社會変動の速度に追いついていけなくなったことが少なからず大きな影響を與えていると見られている。
目を中國社會から世界全體に向けてみよう。果たして「コミュニケーション能力」はグローバルな範囲で、十分に機能しているであろうか。
21世紀は平和と発展の時代になると信じられてきた。しかし世界中で局地戦と小規模な武裝衝突が頻発し、テロ事件は冷戦の時よりもその數が増加傾向にある。アフリカや中近東での武力衝突は終わる気配を見せず、平和への道にはほど遠い。和平交渉の重要さはわかっていながら、紛爭相手に対する不信感があまりにも強いために対話への糸口さえつかめない現狀がある。こうした不信感の根底にあるものこそ「コミュニケーション能力」の低下なのである。なんとかコミュニケーションをとり妥協點を見出す努力を初から放棄して、核兵器を開発し、それが生み出す恐怖をもって相手を威圧し、軍事力で有無を言わせず抑え込もうとしている。
人類の歴史において今日ほど世界の國々の相互依存度が高まっている時代はない。政治、経済、科學技術はもちろんのこと、環境、人口、エネルギーの諸問題など世界の片隅で起きた出來事が瞬く間に私たちの生活に影響を與えるのである。しかし、人間は、ここまで拡大したグローバル化を前にただただ手をこまねいて事態の収まるのを待つか、問題を解決しようとして何の予備知識もないまま異文化に手を突っ込み、卻って火に油を注いでしまうしかないのである。事態は悪化の一途を辿り、多くの摩擦が生じ、諸民族が不必要に憎しみ、緊張を高めることになる。
このような時代に必要なのは、世界中の人々が小異を捨てて大同に就いて世界が直面している共通の課題の解決に向けて努力することである。特に外國語ができ、外國人と接觸する機會のある人々が言葉を通して世界各地の人々とさまざまな文化的壁を乗り越えて、効果的なコミュニケーションを行うことが責務となっている。
こうした役目を擔う人々の課題の1つが、自分とは異なる文化をもつ相手と、異文化コミュニケーションを取ることなのである。ここに異文化コミュニケーションが社會からいかに大きな期待を向けられているかわかるであろう。さまざまな誤解、摩擦といった経験を回顧し、検討することで、異文化を理解するために必要な知識と文化を學び、意識を高めて異文化コミュニケーションをより円満なものにすることこそそれに攜わる者の責務である。
2.異文化コミュニケーションに必要な基本的な考え方
異文化理解、異文化コミュニケーションと言っても、真の意味で異文化を理解することは、たやすいことではない。なぜなら、理解しようとする者自らの資質が問われるからである。
そもそも、「文化」というものを本當に理解しているのだろうか。文化を単なる「知識の體系」として見ていたら大間違いである。文化が包括する內容は幅広く、それを構成している要素は相互に複雑な関連を見せている。文化的生物である人間は、文字どおりに文化が育てた生き物であり、自らを育ててくれた文化とは內容を異にする「異文化」に対しては、素直にありのままの姿で受け入れることができない。なぜなら、人間は異文化を理解しようとする時、無意識のうちに自分の屬する文化の価値尺度で評価してしまうからである。文化において、その言語、行動様式、空間.時間の座標軸に畏敬、親しみ感、甘え、侮蔑、禁忌などの意味が刷り込まれている。異文化コミュニケーションにおいて、そうした大系が的確に相手に伝えられなかった場合、さまざまな「誤解」を生じさせてしまう。
異文化の相手に対して持つ感情は、往々にして自分の屬する文化を鏡として寫した己の姿だと言える。ホール(1980)はこうした人と文化の関係について「文化というものの影響は、人の神経系統の髄にまで染み付いてしまっている」と説明している。
文化とは人にとって「規範的」なものである。そのため、人は自分の屬する文化における価値観をもってあらゆる判斷を下す。このため自文化の価値観と衝突するような「相違」に対して、人は「好ましくない」というレッテルを貼りがちになる。そしてその度合が過ぎ、自文化の優位性を絶対的なものとする信念にまでなった時、人は自文化中心主義(エスノセントリズム)2に陥り、異文化の人々に対してステレオタイプなイメージや偏見を形成するのである。
ステレオタイプ(Stereotype)3は、異文化コミュニケーションの局面においては、特定の集団に屬する人々の特徴を過度に「誇張された所信」4として認識されている。それは例えば、「ドイツ人は厳格だ」「アメリカ人は陽気だ」とかいったものである。こうしたステレオタイプは特定の集団をカテゴリー化し、その中に含まれる人間すべてを一般化したイメージで一括りにしてしまうもので、異文化コミュニケーションを阻害する大きな障害である。
偏見は、ステレオタイプと區別しにくいが、ステレオタイプが「観念」であるのに対し、偏見は特定な人間集団に対して抱く「信念」である。しかも、「フランス人はロマンチックだ」とか「スペイン人は情熱的だ」といったように、ステレオタイプが相手を肯定的に評価する姿勢をそのまま持つものでもあるのに対して、偏見は常に相手に対して否定的評価としてマイナスイメージが付與される。その多くが、誤った既成概念に基づいた、批判的かつ差別的な態度として表現される。5
ステレオタイプや偏見は両者とも特定な集団に対して向けられる。ステレオタイプや偏見は、過度に単純化されたものであるため、特定の人間集団に対して極端な違和感を抱かせやすい。しかも違いの強調や決め付けの態度は、人々に先入観を持たせやすくするため、異文化間コミュニケーションに重大な否定的要因を作ってしまう。
文化背景を異にする人々と接觸する際、文化にはそれ特有の志向.行動様式があるということをわきまえつつも、その差異ばかりを強調すべきではない。ましてや文化に優劣をつけてはならない。つまり異文化との接觸は「平等」で、「開放的な態度」が必要である。
異文化コミュニケーションは、文化背景を異にした人間同士のコミュニケーションであるが、究極的には、それぞれ個々のコミュニケーションである。つまり、コミュニケーションする際、「アメリカ人は~である」とか、「アフリカ人は~である」とか、「イラン人は~である」といったレッテルを貼って考えるのではなく、どのような文化に屬する人たちとも、まず相手を「2人の人間」として、
「個人」として接觸していくべきなのである。そうすることによって、偏見や差別意識という自己束縛から、自分自身を解き放すことができるようになるからである。
中國人社會のなかで生活する外國人の數が増加し、海外で生活する中國人の數も増えている今、中國人は、全世界でさまざまな外國人とコミュニケーションを行わなければならなくなっている。そのためには、異文化間におけるコミュニケーション.ギャップの原因を理解し、文化的相違から起こる問題に適宜対処し、自らも異文化接觸に特有のカルチャー.ショックへの心構えを身につけなければならない。
こうした社會の趨勢を受けて、中國における外國語教育の現場においても異文化コミュニケーションの概念が導入されて久しい。社會言語學の成果を踏まえ
「狀況と場面」をシミュレーションして、いかにコミュニケーショを成立させるかを演習する新しいカリキュラムが中國各地の高等教育で模索されている。単なる外國語を覚えるという姿勢から脫皮して、當該言語の屬する文化圏ではある特定の場合にある特定の表現をするのはなぜかを模擬體験し學習させようという試みである。
例えば、中國人日本語學習者にとって、日本人の日常生活で普遍的に使われる
「婉曲表現」は學習しても定著しにくい概念である。會話學習において定型文を覚えたとしても、それをなぜ使うかという日本人の心情の動きまでは理解できないためである。そのため、日本語を相當理解した學習者でも、日本人が他人を訪問するに際して、決して安価ではない贈答品を「粗末なものですが」とか「つまらないものですが」といった言葉を添えて相手に渡す心情が理解できない。會話の教科書で頻出する文型ではあるが、いざ実際にそうした場面に遭遇した時、中國人は「粗末なもの」「つまらないもの」という言葉を耳にした時、「粗末なものをなぜわざわざおみやげにして持ってくるのだろうか?」と、瞬時に不信感が胸に広がるのを禁じ得ないのである。こうした日本文化特有の「相手を立てるために自らと自らに屬するものを下げる」という謙譲表現が日本の文化の中でどのようなメカニズムを有するかを本當に理解できるまでには、実地體験を積んでいくしかないのである。
もう1つ別の例を上げてみよう。日本人の謙譲表現である「よろしくお願いします」とか「いつもお世話になっております」といった挨拶の定型文は、同様な「謙譲の美徳」の価値體系が中國文化にもあるため、中國人には十分に理解できる。しかし、よりグローバルな視點を広げていくと、これを受け入れられず、憤激する人々も世界にはいるのである。「相
「相手に媚びる姿勢が偽善的だ」とか、手に世話になっていると心から感じていないのに口だけそう言うのは淺はかな小手先の知恵だ」として、日本人の「謙譲」を絶対に受け入れない文化が存在するのである。グローバルな範囲で異文化間交流を目指